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2011年9月のひとりごと


2011/09/19 原子力発電廃止運動に思う

原子力発電が日本の経済発展を支えてくれたことは間違いないし、今現在の経済基盤を原子力発電が支えていたのも今年の夏の節電要求で実感できたはず。

にもかかわらず「今すぐ原発を止めろ」って趣旨の原発廃止運動が盛んなのには疑問に思う。

確かに、原子力発電は必要悪であったのかもしれない。

3.11の津波を原因とした福島原発事故は、原子力発電のリスク管理が甘かったと言わざるを得ないと言うのはわかる。

しかし、想定をはるかに超えた津波故なので、リスク管理が甘かったと言う表現は関係者には酷だと言わざるを得ないし、3.11 以前に M9 / 10m を超える津波が襲うと誰かが主張し、原発の津波策費用を進言したとして、誰がまともに掛け合ったであろうか?

某政治家みたいに「いつそんな地震が起きるのですか?」「確実にその規模の地震が起きると断言できるのですか?」と取り合ってすらもらえなかったであろう。

仮に対応が必要と判断されても、現実味を帯びない災害に対する対策で、増税や電気代への転嫁をどれだけの国民が支持しただろう?
自然の力は時として人知を超えた災害を起こすのは世の常だが、人が判断基準とし使える時間的学習能力はせいぜい200年程度でしかない。

 

では、原発を廃止すべきだという意見を認めたとしよう。

電力が賄えるのか云々の話を別の所に任せておくとして、原発の臨界運転を止めたところでどれだけ効果があるのか理解した上での原発廃止運動なのだろうか?

被災した福島原発も、3.11 の地震を検出した時点で緊急炉心停止をしており、津波に襲われていた時には臨界運転は止まっていた。
にもかかわらず、放射性物質の漏洩が起きたのは、臨界運転停止後にも延々と続く崩壊熱を取り除く冷却装置が津波によって機能が失われたからだ。

仮に、今すぐ原発を止めても福島原発が緊急炉心停止したのと同じ状態になっただけで、安全が確保された事にはならない。

原子炉の臨界運転を停止したからと大喜びしていたどこぞの政治家が居たが、あれは無意味だ。
国民を欺くためのパフォーマンスだったのだろうから、政治的には意味があったのだろうが...

では、安全と言える状態はどうなれば良いのか?

それは、使用済みと使用中の核燃料を全て取出し発電所の外に移設した状態にするのが最低条件だ。更に炉を解体し、放射性物質を完全に取り除いた状態にしてやった安全になったと言える。

核燃料を全て取り出し、原子炉を解体し、放射性物質を完全に取り除くのにどのくらいの費用と時間がかかるのか理解した上での反対運動なのだろうか?

電力不足と、放射性物質を完全に取り除くまでに必要な時間と費用を同時に我々国民が負担する事になるのを理解した上での廃止運動なのだろうか?

もし、このことをちゃんと理解しているのなら、緊急に対策が必要な津波/地震対策改修工事を施して、代替エネルギー確保とトレードオフの形で段階的に原子力発電を停止/廃止するのが現実的であると判断すると思うのだが...

改修程度では対策にならない脆弱な発電所は急いで解体に向かう必要があるが、核燃料を全て取り出すまでに必要な長きにわたる歳月は安全が保たれない状態になる覚悟しておく必要がある。

それらはまだ大した問題ではない。最も問題なのは、最終処分場がいまだ日本には存在していない点だ。

運転を続けていても問題になる点であるが、全ての原子炉を廃炉したとしても避けては通れない原子力発電の暗黒面だ。

原子炉の運転を今すぐ止めて廃炉にしろ、放射性物質廃棄場所の提供もまっぴらだでは、何の問題解決にはならない。

廃棄場所提供で論点のすり替えをしたいわけではない。

原子力発電の運転停止だけにフォーカスしているとしか思えず、安全な状態にするまでに必要な時間や費用や場所について考えいるのかどうかわからない反対運動に同意ができないだけである。

 

 

それと、もう一つ理解できないのが、報道で時折使われる「福島原発から出た放射性物質は、広島型原爆の何倍」みたいな解説だ。

原爆は、放射線や放射性物質を殺傷の道具にした兵器ではない。(放射線や放射性物質を殺傷の道具とするのであれば、あれほどの大規模爆発はそもそも不要)

原爆は、短時間に起きる核分裂反応で発生する膨大なエネルギーを爆発と熱線として使用した殺戮兵器だ。
放射線兵器ではない核爆弾と、漏洩した放射性物質を比べる事自体に違和感を感じるのは僕だけであろうか?

 

 

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